no pat answer, no grapevine

一見正しそうなことや噂になんか流されない。

労働分野における教育コスト負担問題

 法学と経済学の関係(狭義には「法と経済学」の在り方)は,もう何十年来の論争といえるのかもしれない。契約や所有権といった民事分野が古典的な法と経済学の分析対象である。最近では,会社法独禁法においても,当否は別として,広く分析(実証分析を含む)が行われている。さらに,行動経済学とのコラボレーションも遅ればせながら日本においても盛んになりつつある。

 このように,法と経済学は,どちらかといえば民商法における取り組みがメインといえるが,労働法の分野について,わかりやすく法学と経済学の対話を試みたのが,大内伸哉川口大司『法と経済で読みとく雇用の世界』(有斐閣,2012年)である。本書は,採用,賃金,労働時間など労働分野に関する多様なトピックを,法学・経済学双方の立場から検討するという意欲作である。法学を学んだ者には,労働法の教科書に経済学的説明が付加された構成をイメージするとわかりやすいかもしれない。

 フィリップス曲線(インフレ率と失業率にはトレードオフの関係が存在)といった,マクロ経済学的な事項は(ある意味当然であるが)本書では扱われていない。日本とアメリカのフィリップス曲線の形状比較でしばしば観察されているように,解雇よりは賃金引き下げによる雇用調整が慣行となっている日本の現状をベースに,個別の制度や判例法理を標準的経済学で分析しているのが本書の特徴である。

労働をめぐる問題は多岐にわたるが,気になったことがひとつだけある。それは,労働者のスキル・技能の育成である。企業特殊的な技能を取得するインセンティブが長期雇用メリットとしてしばしば挙げられる。このような技能を他社は評価できないし,応募者自身の情報を短期間で把握するのは極めて難しいことから(情報の非対称性の問題),転職市場(外部労働市場)は発展しないし,高齢者雇用では継続雇用が大半となっている。

ところで,現在でもそうであるが,企業と大学の対立がある。すなわち,企業はより実践的なスキル(英語?エクセル?)を身につける教育を求めているのに対して,大学側からは,大学は研究機関である,より高度な専門教育を実施しているにも関わらず評価できない企業のほうが悪であるといった主張がなされる,おなじみの話である。これは2つのことを教えてくれる。

第1に,一見企業特殊的とみられがちなスキルであっても実はそうではないこともある。特殊・一般問わず,企業が求めるスキルを大学で実は養成しているにもかかわらず,企業サイドが発見できていない可能性もある。従って,二重・三重にコストを負担しているおそれがある。

第2に,かりに企業特殊的スキルが膨大に存在していたとしても,教育コストをもはや企業が負担できないケースも考えられる。基本的には,企業特殊的なスキルを教育するコストは当該企業が負担することが原則であろうが,業界や企業でごくふつうに求められるものであれば,すべて自社で抱え込む必要性は薄れてこよう。

これは,大学は,より企業が好むような教育に特化せよということを意図しているわけではない。大学は「研究」を通じて,社会全体の生産性向上に貢献しているのみならず,カリキュラムの充実などにより人材育成にも(一応)取り組んでいる。企業から大学への一方的な負担押し付けが進めばすすむほど,大学の負担が増し,二兎を失うおそれもある。

今までは,特にこれといった技能を有さずフレッシュさ(?)が売りである新卒を採用し,長期雇用の前提で,企業は莫大な費用を投じて教育を行ってきた。しかし,終身雇用をはじめとする日本的雇用慣行が未来永劫続くとは限らないし,「ほころび」が出てきたのも事実であろう。いつの日か,新卒採用を廃止し,経験者を中心に採用することとなりかねない。

社会に出るにあたって必要となるスキルを養成という意味での「教育コスト」を誰が負担するのかということを,改めて考える時期に来ているといえないだろうか。今までは,大学・企業の二者択一で議論されてきたが,コストの大小,習得の長短をもとに,誰が負担するのかということを再考すべきではないだろうか。

見直しにおいては,企業が,長期雇用を前提に行ってきたスキルの「外部化」がひとつの焦点になるであろう。外部化が進むことで,非正規雇用拡大による,スキルをもたない雇用者増大による生産性の低下を防ぐことが可能となる。人口減少・高齢化による労働力人口の減少を防ぐべく,女性や高齢者のさらなる労働参加が声高に叫ばれているが,これはあくまで量的アプローチである。質的アプローチも忘れてはならない。法学と経済学の協働が求められよう。