no pat answer, no grapevine

一見正しそうなことや噂になんか流されない。

いまさらブログをはじめてみるわけ

ご覧いただきありがとうございます。
 

思い返すと,他人からみれば本当にどうでもいいことに真剣に向かい合っていても,必ず相手にしてくれる人に出会えるような素敵な環境にいた気がします。「学生時代の思い出」であると一蹴されてしまえばそれまでですが,寛容さと対話からなるこの環境はできる限り維持されてほしいです。そう決意を新たに(?)しています。

 
たった1人であれば,相手がいないので「寛容さ」は問題となりません。非常に多数であっても,少しぐらいは評価してくれる人がいるだろうから,やはり問題とはなりません。でも,対話は1人ではどうにもなりません。今こうやって駄文を書いている筆者は,正直なところ,「対話の欠如」に悩んでいます。

 
表現の発信方法は時代によって変化します。そう遠くない昔(と思いたい),HTMLを「手打ち」して,フリーのスペースにアップしていました。アップされたデータは,今となってはサイバースペース上のゴミと化しています。最近では,「ソーシャルメディア」なるものが普及し,ネット空間へのアクセスが複線化しています。世界中の人々が自己の想いを簡単に伝えることができるのです。映像でだってアピールできちゃう。いつでもどこでも表現できる。スマートフォンを片手に,日常の思いや発見を簡単な操作で世界中の人々に伝えることができる。ちょっとした一言・ふとした一瞬に励まされ,微笑み,時には落胆する。
 

でも,当たり前だけどどうやって表現するかはひとつではない。簡単なメディアによる表現は,種にはなっても発芽させるまで手塩を掛けて育てていない。こういう表現が嫌いではないけれど,時折,物足りなさを覚えるのです。
 

ひとり頭の中で思索を巡らすのもよいのですが,対話を重ねることでより成熟すると確信しています。でも,もう一度いうと,筆者は「対話の欠如」に悩んでいます。日常のささいな出来事から浮かんだちょっと小難しい話や,ときどき考え込んでしまう専門的な話について,不定期ながら記していきたいと考えています。いつの日かやってくる対話の瞬間に備えるネタ帳としてならキャンパスノートで十分とお叱りを受けそうですが,この空間で対話がなされるのではないかという淡い期待感から,ブログというかたちで認めてみることにしました。どうぞよろしくお願いします。

追伸
「短いつぶやきで伝えきれない気持ちを、ちゃんと書き残してみませんか?」ってキャッチフレーズが目に入ってはてなにしました。同じようなことを考えているひとが相応にいるというあらわれでしょうか。