no pat answer, no grapevine

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行動経済学は競争法上の問題解決に資するか?(1/3)

はじめに

 法律(あるいは規制)と行動経済学の関係は消費者保護の場面で語られることが多い。他方,法律と経済学という観点では,伝統的には会社法や競争法を中心に分析が進んでいる。では,競争法と行動経済学との関係はいかなるものか。

 そこで,今回は,"Behavioral Economics : Implications for Antitrust Practitioners"と題する2010年のペーパーを訳したものを紹介する。長くなるので3つの記事にわけて紹介することとする。

 原典は,以下のリンクから入手可能。なお,脚注は分量が多くなるので省略している点をご容赦願いたい。

http://www.americanbar.org/content/dam/aba/publishing/antitrust_source/Jun10_Bailey6_24f.authcheckdam.pdf

 

 「行動経済学―反トラスト法弁護士への示唆―」の訳文 

 反トラスト法分析の基礎となっている経済モデルには,反トラスト法弁護士にとって親しみのある,行動に関する前提がふたつある。ひとつは,消費者は,経済学者ではない者が「幸福」と呼ぶところの効用(utility)を最大化させること,もうひとつは,企業は利潤を最大化させることである。しかし,これらの前提はともに間違っている。控えめに言っても,実際には反事実が明らかに存在するという意味において,ある程度は間違っている。

 消費者に関しては,自己の効用(あるいは幸福)を最大化することの営みからというよりは,公平感から何かを行ったときのことを私たちはみな思い出すことができる。例えば,どんなに自己が食べたかったとしても,時として(at one time or another),他人に対する公平感(例えば,他のみんなはすでに切れ端を取った?)から,最後に残った切れ端を取ることに大半の人は躊躇を覚えるであろう。企業に関しては,利潤最大化と社会的責任を調和させることに重きを置く企業の数が増えている。これは,厳密な利潤最大化の概念と一致していないであろう。

 消費者および(数は圧倒的に少ないものの)企業が,どのようにして,経済モデルの基礎にある標準的な前提から乖離するかが,「行動経済学」と呼ばれる経済学の一分野における中心テーマである。この分野における研究では,経済モデルをより現実的なものとするために,個人と企業の意思決定行動に関する非現実的な前提をどのようにして修正するか理解することを目的とする。

 行動経済学は,ファイナンスの領域では頑健であるのに対して,反トラスト法と最も密接に関連する産業組織の領域では大きく遅れをとっている。現実における個人の意思決定行動が,標準的な経済モデルにおける前提とどのように結び付いているかを理解することは,反トラスト法弁護士にとって意義がある。なぜならば,反トラスト法では,さまざまな局面において経済モデルが用いられるからである。とりわけ,企業結合においては,合併後の価格に対する合併の影響を予測するために,経済モデルは利用される。合併以外では,特定の企業行動を評価するために,「非経済性」テストや「利潤犠牲」テストといった,利潤追求と関連するテストが行われる。経済モデルの基礎となる前提が,現実的であるか否かにも関心が寄せられるが,標準的なモデルが経済的な結果に関する価値のある諸予測を提供するために,これらの前提が完全である必要はない。多くの事例において,標準的なモデルはうまく機能している。このような理由から,行動経済学は,消費者および生産者の意思決定に関する標準的なパラダイムを放棄して,別のパラダイムに置き換えようとするものではない。むしろ,行動経済学は,経済学的な帰結や政策決定に改善をもたらすことにより,反トラスト法に恩恵をもたらすであろう。

 反トラスト法分析で用いられる経済モデルへの普遍的な変化を確たるものとするには,標準的な枠組みで得られた予想に反する事実は広く認識されるとともに,価格・消費者余剰に関して,経済学的に意味のある影響をもたらさなければならない。現状,そのような変化は確かとはなっていない。なぜならば,今のところ,実際の事例において,一貫的かつ継続的な逸脱を示す証拠はないからだ。しかしながら,特定の産業において,関連する事実やデータを用いることによって,消費者が標準的ではない意思決定をすることが記録されている範囲内において,私的団体,政府機関そして裁判所の一部では,代替的な枠組みを用いることを支持する十分なデータがもし存在するならば,そういった他の経済モデルを考慮することに意欲的になるだろう。

 標準的な個人の意思決定枠組み

 個人がどのように意思決定するかについて理解することは,経済学における基本問題である。例えば,Cheerios, Raisin Branあるいはこれら以外を購入するか,消費者はどうやって決めるであろうか。また,たくさんの種類があるCheeriosのなかで,消費者は,どのようにして,Honey Nut, MultiGrain, FrostedあるいはYogurt Burstのいずれを選ぶのであろうか。こういった問いへの回答は重要である。なぜならば,消費者がどのように選択し,他の属性(例えば食物繊維)よりもある属性(例えばを甘さ)をいかに選好するかについて考察することは,各々の朝食シリアルの需要曲線に関する情報を提供してくれるからである。

 標準的な経済モデルでは,個人の意思決定行動については,利用可能なすべての情報を用いて,効用関数を最大化する選択をし,完全かつ合理的にその情報を処理すると想定されている。この枠組みでは,個人は,自己の利得水準にのみ関心を払い,決定がどう枠組みされているかを知ることができず,加えて,時間を通じて一貫した選好を有する。数学的には,時点t=0における個人iは,ありうる状態のうち,個人が信じる状態s∈Sが実現する確率p(s)のもとで,期待効用を最大化させるx∈Xを選択すると想定されている。数式で表すと以下のようになる。

                Max Σp(s)U(x|s)

 標準的な枠組みからの逸脱を考えることが,行動経済学の研究課題である。行動経済学が標準的な個人の意思決定枠組みに対して投げかけるのは,消費者選好 U(x|s) が,標準的な枠組みのなかで現実実をもってモデル化されているか否かという点である。経済学者にとっては,消費者の選好とは,消費者がどのように財あるいはサービスを評価するのかということしか意味しない。例えば,個人は自分自身にしか関心を示さないと想定するのは現実的であろうか。同様に,個人が,享受する効用の絶対水準にのみ関心を示すとの想定は現実的であろうか。

 慎重に組み立てられた実験室型実験が示唆するところは,消費者は個人の意思決定に関する標準的なモデルから逸脱しうるということである。また,そうした実験の枠を超えて,消費者が,現実世界の設定において,個人の意思決定に関する標準的なモデルからどのようにして逸脱するかを見つけ出そうとする実験室型ではない実証研究も増加している。実験室型ではない形式で得られた証拠は重要である。なぜならば,反トラスト法分析は,問題となっている製品,市場および行為に特有な事実について,実際の証拠を示すよう求めているからだ。多くの状況では,標準的なモデルにおける個人の意思決定枠組みはうまく機能する一方,以下で示す実証研究は,特定の状況では,標準的モデルを改善させる余地がありうることを示唆している。